1/21 after six[13] 更新!!
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 「オハヨウ」

 そう言って私はすくっと立ち上がった。とりたてて話題が見つからなかったので、他愛のないテストの話を少しした。今回のテスト、持ち込み可のわりには捻った問題だったよね、とか。

「これ、ありがとう」

 小さな動作で、高木は鞄からハンカチを出した。これは京都に研修旅行に行ったときに買ったお気に入りだ。白くて柔らかい素材で一番気に入っている。欠点は、ほつれやすいところ。カラスの刺繍が小さく入っている。私はそれを受け取って鞄にしまった。

 辺りが学生だらけで、混雑してきたので、私たちも流れに合わせてその場を動いた。女学生の何人かが高木を見上げた。エレベータを待っている間、他の学生に埋もれながら、私たちは無言だった。緊張している? なぜ? 自問したが答えはどこからもでてこなかった。

 箱に乗り込むと、これでもか、という具合にあとに続く学生の波に追いやられた。これが嫌なんだけれど、此処は六階。仕方ない。目の前に高木の肩があった。一階に着くまで何度かドアが開いたけれど、目を閉じていた。

 箱からでて窓際まで行ったところで、学生達がそれぞれの目的地に向かったため、散った。そこで振り返ると同時に呼び止められる。

「ん?」極力、穏やかな表情を作る。やさしい女になれ、自分。
「名前、なんていうの? そういえば」そういえば、だと? あれ、何怒っているんだ私。
「浪川」
「ナミカワさん」
 復唱される。
「絵美」続いて下の名前も言ってみた。
 だがそれは復唱されず、痣の残っている目がコチラを捉えた。ただ見る、のとは違う。一種の束縛行為に似ているな。束縛。

「あのさ、ちょっと話したいことがあるんだ。時間ある? たいしたことじゃないんだけど」
「ああ、いいよ」

 大して忙しくも無いのに腕時計に視線を送る。なんだろう、なんだろうと、また頭が走馬灯(チガウけど)になる。メビウスの輪の上に「なんだろう」の文字が蒸気機関車のように走っている。

 とりあえず私たちは、中庭のウッドデッキへ向かった。ベンチとテーブルが設置されていて、植物もあるのでなかなか居心地がいい場所だ。噴水は故障のためか止まっていた。ふと見ると、今日もおじさんがガーデニングをしていた。軽く会釈をすると、にっこり笑って作業を続けた。私たちは日陰になっている場所を選び、座った。

 今日も暖かい。
 ポケットの携帯が震えたが、今は出さない。私は誰かと話をしているときは、極力携帯電話をださないようにしている。なんとなく、マナー違反な気がするんだ。

「昨日のことなんだけど」

 少し言いにくそうに切り出す高木。その目は私じゃなく、テーブルの木目をなぞっているように見えた。その話だと思っていたけれど、冷水をかけられたような発声に、ほんの一ミリ心臓が跳ねた。さっきまで試験なんていう学生本分のリアリティの中にいた自分が昨夜の事を思い出すと、少なからず夢だったような気がしてならない。

「誰にも言わないでほしいんだ」
 私を見る。うなずく。できるだけ穏やかに。
「うん。わかるよ。人に言えないこととかさ、知られたくないこととかさ、あるじゃない」
 そう言うと、高木は微笑んだ。続ける。内緒話をするかのように声のトーンが下がった。小鳥が近寄ってきた。

「あと、聞きたい事があるんだけど、服を持ってきてくれたとき、近くに鍵、なかった?」
 両手の人差し指の体操みたいに小さなジェスチャで”鍵”を示す。これくらい、という風に。私は顎に手をあてて視線を空に飛ばし、昨日を回想した。

 鍵。 草、 虫、 警備員、 むし、 かぎ……。

「うーん、暗くてよくわからなかったから……大事な鍵なの?」
 頷く。しっかりと頷く。
「何の鍵なの?」
「宝箱の鍵」
囁くように、そう言った。


【2008/06/09 21:03】 | 小説『after six』
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 眠気覚ましに、鞄からガムを取り出して噛んだ。スースー。口の中が少し痛くなる。家に帰ったら二十二時半ごろにはなるか。ここの駅から二駅で着くほど、大学から私の住んでいる所は近い。飲み会のあとに、たまに友達を泊めたりしている。帰って何か食べようかと考えていた。それからテストの持込用プリントを作ったとすると、寝るのは早くても、夜中の……二時にはなるか。もちろんお風呂に入ってから寝るよ。それから起きるのが朝七時だから、まぁまぁかな。全く、二部の時間帯の授業なんて、スケジュールに組むもんじゃないなって思った。

「おまたせ」
 斜め後ろから声がしたから振り返った。立ち上がって受け取る。

「これ、コピーしたやつ」
「あ、ありがとう」

 コピーされた用紙に軽く目を通してみる。字がきれいだった。教科書の明朝体に似ている。男なのに字が丁寧だということに対し、なんだかズルイ感じがするのは、私の字が下手だからだろうか。このコピーを見ながら、自分用に書き直す作業を想像して、ため息が出そうになったけど、こらえた。彼はスリッパを穿いていた。

「借りたハンカチ、明日返すのでいいかな?」
「あぁ、うん。いまでもいいよ?」
「少し、汚れたから」
 彼は眉根をひそめて呟く。なんだか申し訳なさそうな顔をしている。

「そんなに気にしなくていいよ。アリガト。じゃ、倫理のテスト終わった後は?」
「分かった。教室入り口で」
 頷いた彼は、じゃあ、と言って手を挙げ去ろうとした。私が鞄を肩に掛けた所で、彼が振り返った。
「高木」

 ああ、名前知らなかった。相手から名前を言われたので、どことなく安心感を覚えた。
「高木ユーイチっていうから」 そう言って、足早に去っていった。

 ちなみに私、浪川絵美っていうんだけど、それには興味、ないわけですか。そうですか。
 高木はジーンズのポケットに手を突っ込んでエレベータを待っていた。

 ……後ろ頭がムカツクから殴られてロッカーに突っ込まれた? 大学生のすることじゃないしアホくさい。でも自らロッカーに入るほどアホではないだろうと思った。或いは、……そうしなければいけない状況になったから?
 って、私は何を考えている? 首を軽くゆさぶってみた。
 変な人だけど。名前は普通だなって思った。

 目が蟻地獄。トランクスだけ。はだし。痣だらけ。「み、身軽でいいと思うよ」
 ひとまとめにして『変態』。それが高木のファーストインプレッションだった。
 

* * * * * * * *  * * * *


 前期試験の最初が、たいしておもしろくもなんともない倫理学。なんだかね。
 でもおかげさまで、回答はとても楽だった。ある程度勉強もしていたおかげで、三十分で全て終わったけど、一応終了の時間までは席にいた。

 見直しをした後、退屈になったから窓のほうを見た。もちろん目だけを動かして。カーテンがふわふわ揺れていた。試験監督をしている三人の教員達は、着ている事が使命とでも言うように、スーツの上着を羽織っていた。見てるこっちが暑くなる。脱げばいいのに。

 ふと、高校の試験中にあった出来事を思い出した。苦手な数学の試験だった。計算をしている時に、突然教師が話しかけてきたのだ。お前、学校祭一日目は出席してたか? って。その時の自分の顔は思い出せないけれど、すごい睨みを食らわせていたと思う。ありえないよねぇ。気が散るじゃないの。

 終了のベルが鳴るまで、あとは寝ていた。開始から四十分すると、退室が自由になるので学生が席を立ち始めた。五分前になると、教員達が再確認を促したので、目を開いて名前と学生番号をチェックした。ベルが鳴る前にさっさと教室を出た。

 その時、同じ列のかなり後方に、高木を見つけた。彼は机に突っ伏して寝ていた。左目の痣はまだ、残っていた。一日でひくものではないけれど。

 やかましくベルが鳴り響いた。一年生の頃は、しょっちゅうビクリとしていた。通路の長いベンチに座っていると高木が出てきた。少し眠たそうだった。私に気付くと目を少し見開いて口角を上げた。どこかプログラミングされたような動作だった。
 こう、改めて見ると、意外と背が高くてしっかししている……なんて思うのは私がいま座っているからだと気付く。


【2008/05/25 23:14】 | 小説『after six』
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 倫理学の授業は、どの学部の学生も履修することができる。

 試験は、二百人以上の学生が講義を受けているものだと、大抵は試験期間内に実施される。でも、教師の都合などで(迷惑)期間内に実施できない場合は、授業の最終日に試験を行うのだ。この授業は、単位が取り易いことで有名だが、どうも授業内容の評判が良くないようだ。下を向いてポソポソ喋っているから、退屈なんだよね。大学側は、もっと自己流な授業ができる人間を雇ったほうがいいと思う(と、教授が言っていた)。

 その授業では私はいつも、前のほうに座っていたんだ。じゃないと、文字が見えないし、声も聞えないから。マイク、使っているんだけどね。
 そういえば忘れていたけど、気になる事があったのだ。彼の、Tシャツからはみ出た腕を見て思い出した。

「痛くないの? そういえばさ、身体は痛くないわけ? 痣なかった?」

 そう言って私は彼の顔を覗き込んだ。彼が伸ばした中指で左目の下をなぞるので、本当にアイシャドウを塗っているのかと思ったが、色はそのままだった。
「あぁ、押したら、痛いな」
「そりゃそうでしょ」
 
 足のほうも痛そうだなって思って足元に視線を落とすと……。
「ねぇ、靴、穿いてないよ」
 今度は彼が立ち止まった。それは、驚いていたのだ。まず彼は目玉だけを地面に向けた。それから顎を引いた。

「靴は……、茂みには無かったよ」
 服を拾いに行ったとき、辺りには靴下すらなかった。もっとも初めから穿いてなかったのかもしれないが。
「ドコ行ったんだろう。」
 顎に手をやり、考えるポーズを取る彼がだ、絶対に困っている様子ではない。
「っていうかさ、気付かなかったの? コンクリートを素足で歩いていて気付かなかったわけ?」
 頷く。そのあと、「気付かなかった」と呟いた。やっぱ変態だわ、この人。
「アタシもプリントのお礼になんかしたいトコだけど、さすがに靴は貸せないわ」

 み、身軽でいいと思うよ。

 そう言って彼は歩き始めた。スラスラと歩き始めた。夏って道路に虫の死骸とか多いけど大丈夫? とかガラスの破片踏まないように、とかは言わないでおいた。この人は、踏まないだろう。

 ホテルだった。

 ラブホテルでもないし、ビジネスホテルでもない。れっきとしたリゾートホテルだ。駅ビルの近く。彼はそう言った。そう聞くと、普通は駅から徒歩何分っていうのを想像するじゃない。マンションだったりね。彼の場合、駅ビルの近く=隣接、みたいね。
 つまり彼が住んでいるのは駅ビルに隣接したホテル、なのだった。
 駅周辺は賑わっていた。
 だからたくさんの人が彼の足もとを見るたびに目を丸くした。何かの罰ゲームだと思われているのかもしれない。この辺りは歩道が光沢のあるタイル貼りに舗装されている。ペタペタと歩く音がしそうだった。少し恥ずかしかった。

 この付近はほぼ毎日通っているけど、まさかこのホテルに住んでいるなんてねぇ。思わないじゃない普通は。ホテルに住んでいるなんて。どこのハリウッドスター? 雑誌で見て、いいなって思った事もあったよ。このホテル。
 彼はもう自分が素足だということも忘れているのか、それとも気にしていないのか、重厚なドアを開け(ボーイが開けた)一度後ろを向いてから、ロビーを進んだ。

 ふっくらとした、染み一つ無いカーペットが敷かれていて、この上を歩くぶんには、裸足のほうが踏み心地がいいのではないかと思った。彼はロビーのソファで待っていてくれと私に言って、エレベータに向かった。目で後姿を追うと、巨大なシャンデリアが視界に入った。ため息が出そうになった。
 エレベータを待っている間、彼はさっきのボーイと会話をしていた。もうここに住んで長いのか、仲が良さそうに見えた。あの人種と仲が良くなる人種は、何種なのだろうかと疑問に思った。
 私は少し緊張しながら待っていた。
 深い座り心地のソファにリラックスすると、眠気が湧き出てきた。そして同時に、一体自分は何をしているのだろうという思いが膨らんできた。
 7講終わり、文化棟に行き、会い、警備員をごまかし、結局プリント忘れ、今、借りようとしている。これだけ見ると普通だけど、いかんせ会った人物が普通じゃないからな。でも普通ってなんだろう。普通だったら、あの人とご対面した瞬間に悲鳴上げたりするものなのかな。そしたら私だって普通じゃないってこと? あーもう、眠いや。

 


【2008/05/22 01:08】 | 小説『after six』
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 とりあえず彼を見ているのが痛々しかったので、ハンカチを冷水で塗らしたものを彼に渡した。彼はハンカチが汚れてしまうのではないかというそぶりを見せて、少し戸惑ったが、一度左目をハンカチで覆うとずっとそのままだった。

 さて本当に困ったものだ。そろそろ本当に帰りたい。いくら明日のテストが持ち込み可だとしても、こんなトコロで暢気にしてはいられない。テーブルに肩肘ついてため息ををつくと、彼は急に立ち上がり、窓を開けて見下ろした。そしてにんまりと振り返る。

「あったよ、服」
 その姿で満面の笑みってやめてくれない? っていうのは心の声。私も窓辺に行くがある程度距離をとる。心のディスタンスってやつ。
「下に落とされただけか。良かったね。あって」
「ああ。じゃあとってくる」
 そう言って、彼は窓から身を乗り出そうとした。急いで止める。
「バカじゃないの? なにやってるの! 君みたいな格好の男が窓から身体だしてる姿を誰かに見られたらそれでこそ変態になっちゃうよ。しかも危ないからやめたほうがいいと思うの。だから私が取ってくるよ」
「え? 危なくないか?」
「誰がこっから降りるって言ったの。普通に外から回ってくよ」

 私はそう言ってドアまで歩く。セコムが鳴るかもしれないけど(とは思いつつセコムがどんな反応をするのか、知らない)、どっちにしろ、ここからじゃなきゃ出られない。まぁ仕方ないかと自答して退室する前に振り向いた。
「窓。ちゃんと閉めてね。虫入ってくると厄介だから」
 お気をつけてと、彼。私は変態を匿って一体何をしているのだろう。

 さっきまではとても恐かった通路だったけれど、それ以上のハプニングのおかげで、進む事ができた。振り向く事は、しなかったけれど。


 ***************


 その後、どうなったかっていうと。
 私、警備の人とバッタリ遭遇してしまって。

 私が一階に降りてホールに出たときにね、大学校舎で部室の鍵が一つ足りない事に気がついた警備員が、文化棟に戻ってきてたの。それで鉢合わせたのだ。駆け足でこっちに来るから本気で逃げたくなったけど、そしたら私まで変態みたいでしょ。だから正直に話したの。
 でも二階の部室にいるあの男の事をなんて説明したらいいのか全然わからなくって。二階の窓から荷物落としちゃったんで(うそじゃないでしょ)拾ってからちゃんと出て行きます。と、言って待っててもらったんだ。そして一階の窓の鍵を開けてから文化棟を一度出た私は、茂みを回りこんで(虫がいっぱいいた!)彼のものと思われる服を確保。幸いなことに、地面の泥はついていなかった。それを何回も掃ってから、ベルトの金具が床に直接落ちないようにTシャツで包み、窓から内側へそっと投げた。すぐさま校舎に入り、自分の携帯を警備の人に見せて、ありましたー。ありがとうございます。とお礼を言い、投げ入れた服を回収。すぐさま二階へダッシュしたのだ。

 待っていた彼に衣服を押し付けて、今更だけど背を向けた。彼がお礼を口にする声が耳に届き、続いて衣類のすれる音がした。はぁ。私は一体、と思いながら鞄を引き寄せる。服を着て、まともな人間になった彼と早足で文化棟を出た。待っていてもらった警備員に再度お礼を言って鍵を渡した。男と二人で階段を降りてきた私を見て、少なからず驚いていた。そのときの警備員の顔つきがやたら憎たらしく見えた。彼が服を着る前に見つかっていたら、翌日変なニュースになっていたかもしれない。本当に。

 駆け足で大学敷地内を抜けた。夜。深くとっぷりとしていた。緊張から解放された鼓動がうねりながらリプレイをしている。そのリズムが身体から薄れていくとき、ようやく大きく息を吸うことができるようになっていると、気付いた。

 立ち並ぶ街灯には蛾が集まっていて、パチパチと羽音がした。なるべくガードレールに沿って歩いた。生ぬるい風がゆったり吹いている。ウチワが欲しいなって、思った。家に帰ってアイスティーが飲みたい。レモンを入れて、飲みたい。

 坂道を下ったところでハっとした。プリントを鞄に入れていないことに気付いて立ち止まった。

「どうかした?」
 そしてまだこの人と一緒に居た事も思い出した。首だけひねって後ろを見る。
「プリント。ロッカーから持ってくるの、忘れた」
「え?」
「君が入っていたロッカーを私が使ってて、そこに明日のテストで使うプリントが」
「木曜で、明日テスト?」
「そう」

 テスト期間はまだ二週間くらい先だけど、前期の授業の最終日にテストを実施するものもある。明日はその類のテストだ。さすがにいまさら大学には戻れない。文化棟が開くのは朝の九時。間に合わない。ここは事前に準備をしなかった自分の行いの悪さを呪って諦めようかと思っていた時だ。
「もしかして倫理学?」
 あ、もしかして。
「そうそれ。ソクラテスがでてくるやつ」
 もしかして……?
「それ、僕も受けてる。貸す? ロッカーから出してくれたお礼」
 
 え? 嬉しい。ロッカーから出ようとしなかったヒトの理由にはならないけど、ありがたい。私、すごい顔していたと思う。歯に、海苔とかついていたらオシマイだなって思う。
「あの授業うけてたの? 全然わからなかった。ぜひ、貸してください」
「回答のカンペもある」 Vサイン。
「たのもー」
「うん。お世話になったしね」
「……アリガト」
「駅までいっていい?」
「うん。私もそっち」
「わかった」

 そう言って、彼は歩き出した。駅ビルに近い場所に住んでいるらしい。なんだか今まで傍若無人な態度でいた自分が恥ずかしくなった。やさしい女性になる。これだね。今年の目標。私も付いて歩く。なんだか変な感じ。正面から車が走ってきて、ヘッドライトが眩しかった。



【2008/05/18 15:00】 | 小説『after six』
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 テレパシーが伝わったのか、彼の視線が伏せられた。

 落ちた携帯電話を見たようだ。左目まわりに痣ができていた。
アイシャドウを塗ったみたいだった。それは蟻地獄のような目だった。コッチを見ているんだけど、視点がおかしいっていうのかな。そこにくっついている筈の二つの目玉が彼の顔から一瞬抉ったように消えうせ、眼窩の真っ暗闇がコチラを見ていたという感じだった。見ていた、というよりは写されていたと言った方がいいかもしれない。
 すさまじい引力がそこにはあったのだ。見えない力、まさにダークマターだ。……なんて冷静になって分析してたもんだ、このときは。

 硬直していた私をよそに、命が吹き込まれたブリキ人形のように彼は動き出した。
 まず折りたたまっていた足を右だけ伸ばし(裸足だ)、そこから両手をロッカーの淵に掛けて身を乗り出す動きをした。私は後ずさりをしながらそれを見ていた。何かが生まれたみたいだった。ロッカーが軋んだ音がした。
 それから、ようやく身体の全てどこも忘れることなく這い出した彼は、とりあえず膝をついた形で一度止まり、呼吸をした。
 俯いて息を吐き出した。フーーーっと音がした。よく見ると痣は身体にもあった。模様のようになっているのだルメシアン。
 私は映画でも見ているような感覚になって、私と彼のあいだに、存在しないはずのテレビの枠を探していた。ドラマでも映画でもない。

 普通の日常がどこかでレールを間違えそうになっただけのことだと脳に叩き込むまでに時間がかかった。このまま突っ立っていたら、私の存在が消えそうな勢いだった。声の出し方を忘れかけた喉とが、震えた。

「なにしてんの?」
 ひねりもなにもない、ストレートな質問だった。これが良いのか悪いのか、言葉がちゃんと通じるのかも不安になる光景だった。パンツ一丁の彼に何かを被せたかったが、今は夏。見回してみても、毛布やブランケットの類は誰も持ち込んでいない。
「閉じ込められていたんだ」
「え?」

 唐突に発せられた彼の声を耳にし、身体が跳ねた。空気に潜む電波が声帯を持っていたなら、こういう中低音で喋るだろうと思った。携帯電話を拾い、立ち上がって椅子に座ろうとしたが、その前に私を見た。
「いいよ。座って。ドゾ、あ。アリガト」
 彼は机の上に携帯電話を置いて少し笑った。コイツがパンツ一枚じゃなかったら、ときめいていたかもしれない。キリシタンな玉山鉄二。うーん。
 冷静になれば、ロッカーの中に居ても居なくても異質な光景だ。今、突然ここに人が来たら、そいつはなんて思うだろう。

「閉じ込められてたって? でもあの、あなたが居たのは私が使っているロッカーなんだよね。ここの部室にも今日だって誰か来てるはずだし」
「ああ。今日、部員さんかな。来てたよ。星の話をしていたね」
「どうして合図しなかったの? だしてって」
「星の話を聞いてるのが、おもしろかったんだ」

 正直、は? って思った。コイツは馬鹿なんじゃないかって。生粋の馬鹿なんじゃないかって思った。でもね、その時に私の脳裏をよぎった言葉があった。”馬鹿と転載は紙一重”ってね。コイツはそれかもしれないって、真剣に思えちゃったね。私もとりあえず、テーブルを挟んだ向かいに座った。
「冗談。眠っていたみたい」
「(冗談になってねー)じゃあ、朝からここに居たってこと?」
「……あぁ、そうだよ」
 次に口を開こうとしたとき、彼のほうからキョルンと音が聞こえた。そりゃー。
「そりゃー、お腹減るよねぇ」 笑う。
 安心したのか、彼の警戒心がゆるまったように見えた。
「もうぺこぺこだよ」
「じゃぁもう帰ろうよ。てか、服は?」
「ないよ」
「ん?」
「捨てられたみたい」
「帰れないじゃない」
「そう。だからもし起きていても、合図できないよ。みんなびっくりするだろ」
「そりゃあねぇ、ロッカーからアンタみたいなの出てきたらねぇ」
  あ、初対面の人にアンタっていっちゃった。でも気にしてないみたい。

「服は、……脱がされたわけ?」
「そう」
「誰に」
「男だったな」
「うわ」
「?」
「なんか、やっぱ変態なんじゃないのアンタたち」
「違うよ、きっと後ろ頭がムカツクからとかいう単純な理由で、昨日の夜たまたまここに連れ込まれて脱がされて押し込まれたってだけだよ」
「そんな理由で、こんなことされちゃたまったもんじゃないっての。ねぇ、友達に電話してココに来てもらったらいいんじゃないの?」
「トモダチ」
 彼のその表情は、友達の名前を思い出そうとしているようには見えなかった。その単語の意味を理解しようと、脳全体の情報機関をフル稼働しているみたいな顔だった。その計算処理が終わる前に、言った。
「アンタ友達いないでしょ」
 彼はお手上げです、という素振りをしてみせた。そういえば荷物も持って居ないのだ。服のポケットに財布や携帯(持ってなさそうだけど)が入っているなら、やはり彼は此処では誰とも連絡が取れないということになる。



【2008/05/14 01:35】 | 小説『after six』
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